『すぎなみ文化通信』2000年9月号(No.139)掲載




病院船・ヒロシマの救護体験
 
              
元、日赤  従軍看護婦    守屋 ミサ病院船の写真

写真:病院船ぶえのすあいれす丸・香港島にて
撮影:山根氏(患者)

1.病院船従軍
 私は、太平洋戦争中、病院船に従軍、北朝鮮清津からラバウルまで、二年間22往復を傷病兵の輸送にあたりました。はじめは、負傷者が多かったのですが、だんだん栄養失調、マラリヤ、デング熱が増え、特に最後のラバウルは、ほとんどが飢餓状態で、船の中で亡くなる人もあり、甲板の火葬の窯に石炭をくべて死体を焼くのも、看護婦の仕事でした。

 どの航海でも精神疾患者が、約一割いました。戦争の恐怖・罪悪感や、マラリヤ・デング熱等の高熱によるものでした。

 往路は、赤十字違反の軍人、武器、軍用犬、慰安婦を輸送したり、敵の潜水艦や飛行機に遭い、また、荒れた海の船酔いに苦しみながらも、私は運よく生きて還ることができました。

2.ヒロシマ
      〜原爆と枕崎台風〜

 8月6日、私は原爆中心地より西二十qの広島陸軍病院大野分院で、強烈な閃光とともに、腹の底に響くような爆風を受けました。

 間もなく、重症者がどんどん運びこまれてきました。髪は逆巻き、衣類は焼け、幽鬼のような姿、病室は人の腐った臭いとうめき声、2〜3日たつとうじがわき、亡くなった母親の乳房を離さない乳児等、まさに地獄絵図でした。 9月17日、枕崎台風。原爆42日目のこの台風で発生した土石流のために、大野分院は倒壊流失し、生き残っていた数十名の原爆患者は、二名を残して、総てが亡くなりました。

 この時の広島県内の犠牲者は、2012名。ヒロシマは8・9月原爆の火と、台風の水の、大きな犠牲を出したのです。




    陸軍特別幹部候補生(特幹)
       〜 一期生Fは 〜
 
                      藤沢 穆(きよし)

                  藤沢さんの軍服姿

 
 1944年(昭和19年)3月、Fは、母に「行きます」と言って家を出た。当時「行ってきます」という言葉は「征って帰ってくること」と、たたきこまれていた。〈死にに行く、のであった〉旧制中学卒業式の数日前であった。

 特幹というのは、全国から16歳から18歳までの少年が志願したのだった。

 入隊先は、兵庫県加古川「陸軍航空通信学校・加古川教育隊」へ。到着するとすぐ、すべての直衣をぬぎ、軍支給の軍服に着替えを命じられた。家から着てきた学生服などは、小包で家に送り返した。それぞれ一人一人は幹部候補生である。自らの名は〇〇候補生と呼ぶこととなった。「娑婆」という言葉を初めて聞いて、たたきこまれた。

 翌日から上官の叱咤激励を受けて、無線通信、送受信の技術を覚え込む訓練は過酷なものであった。通信兵不足の現況下での習練は急務であった。―罵声が響き、竹刀がしなる。

 「一期」(訓練始めから6ヶ月後)の時期が迫っていた。通常の成果があがったと認められれば、一階級あがる。(一等兵から上等兵に)

 9月初旬、教育隊(九個中隊)全員による「軍歌演習」を、夕食後、司令部前広場に於いて行うと命令が下った。「大いに英気を養うため」である。
 初秋を感じさせるさわやかな風と夕闇が流れていた。全中隊(約二千人)は中隊ごとに、整列時・行進時という設定で演習を行うので、いわば中隊ごとの競演でもあった。

 ひとくぎりついた所で、副官士官は、全員整列を命じた。「諸君、われこそは、と独唱するものはおらんか」呼びかけた。「……おらんのか……」「ハイ、○中隊、○○候補生であります」「よーし、何を歌うか」「ハイ、アリラン峠であります」「…む、こっちへ来い」「始めッ」アリランが始まった。素晴らしいハリのある声量、確かな音程もすばらしく堂々としていた。全員が圧倒された様子。副官は「よーし、他に誰かおらんか」「……」「もう一曲よろしいでしょうか」今歌った候補生である。「トラジをうたいます」澄みきった、そして深みのある声が広場一杯にひろがった。一人一人にしみこんでいく。

 後日、候補生たちは、聞き覚えた「トラジ」のメロディを口ずさんでいた。班長が現れると、その歌声はとぎれたが、班長は、聞こえないフリをして通り過ぎて行った。

 その後、Fは兵庫県三木飛行場勤務を経て東京の「参謀本部航空通信隊」勤務となる。候補生の半数は沖縄へ、そしてその多くは戦死した。



 陸軍特別幹部候補生(特幹)〜 その(2)


  陸軍特別幹部候補生は、帝国陸軍の下士官速成コースとして、昭和18年12月14日勅令九九二号で創設された。

 《服従と規律》

  天皇の軍隊は、軍隊を一大家族とみなして、中隊を兵営に於ける一個の家とし、内務班を、「その基本単位としての家族の如きもの」と位置づけを行うことで組織的に成立していた。そのため「内務班のあり方」こそは、日常の起居を共にすることで、兵を「兵」たらしめる教育の場として軍隊の成否を規定していた。そのため、「内務教育」は十項目にわたって、下士官(班長、伍長など)を中心に、一見「家族主義」的よそおいの下に、展開されていた。 そこでは集団生活を営む上での社会教育に関する躾のみならず、絶対服従と団結心を強めるための「精神教育」が試みられていた。

 中隊兵営は木造、瓦葺き、南向き総二階建。東西約80m、南北約35m、内部はすべて板張りで、東西中央に約一間強の廊下があり、各室毎に板張りの仕切り、中隊長室、小隊長室、准尉室、班長室そして各内務班があった。 内務班は廊下をはさんで、南北に位置し、各人の寝具(藁ふとん、毛布二枚、敷布)そして棚があり、各人の手箱(私物、筆記具などを入れておく)が置かれ、その脇には二装用の軍服や、雨具などが羊羹を切った様に整理整頓されて置かれていた。いわば、日常生活の細部に至るまで、兵士たちは管理されていた。軍隊における服従と規律は、この様な内務班生活によってはじめて確立されていたのだった。

《ぜんざいのテンコ盛り》
 
 1944年秋、激しい一期の検閲も、全員「合格」ということで、日常的な訓練は一山越えた時期であった。 通達によると、本日の夕食は特別支給という。炊事当番が何やらヒソヒソ話している。歓声をあげる者もいた。どんぶりの上には白ぶかし(うるち米をふかしたもの)の上にぜんざいのテンコ盛りである。班長が中央に候補生は整然と腰掛け、班長の「食事始め!」で全員むしゃぶりついた。  やがて夜の点呼である。H区隊長(小隊長中尉)がやって来た。通常の点呼が終了して、「本日は持ち物検査」を行うと告げられ、各候補生は手箱のふたをあけて検査を待った。全員不動の姿勢である。

 H区隊長は、私の数人先のM候補生の手箱を指さして、「これは何だ!」と言う。皆、その方を見た。何と、手箱の中には先ほど食べた「ドンブリに白ぶかし、ぜんざいのテンコ盛り」があるではないか。M候補生は区隊長に土下座して「誠に申し訳ありません」と叫んだ。区隊長は「こっちへ来い!」M候補生が廊下へ出た。「天皇陛下より、全員に対し平等に賜ったものを当番であれ、何であれ、自分だけ隠し持って、あとで食うつもりだったのか!」M候補生は土下座して「申し訳ありません」「立てェッ!」立ち上がって不動の姿勢をとったM候補生に対し、H区隊長は、右手を伸ばし、「ッタウッ!」と「突き」をくれた。M候補生は前向きのまま、後ろにすっとんで倒れた。剣道の「突き」を、竹刀ではなく右手で突いているのだ。 「立てェッ!」「不動の姿勢」「突き!」「すっとぶ」「不動の姿勢」「突き!」。約80m程の廊下で、激しい動作の繰り返しが――続く――続く。

  遠ざかるに従って、怒声と、倒れる音が段々と小さくなったが、突き当たりの廊下から、向きを変えて、こちらへ近づいて来た。H区隊長は、眼鏡は飛び、足はもつれていた。M候補生は、倒れても、倒れても起きあがり、またブッ飛ばされていた。内務班の廊下は、班長(下士官、伍長)以下、我々候補生は何も言えず、手出しなど出来ず立ちすくんでいた。

 区隊長「この様な出来事は、これで最後としたい、候補生全員の責任として」「隣のものと相対しろ」私は隣の候補生と向き合った。「分隊の共同責任として切磋琢磨せよ」隣の候補生は、私を、そして私は隣の候補生へビンタをくらわした。班長「もっと真剣にやれ!相手を倒すぐらいに気合いを入れてやれ!」何度も、そして何度もビンタが飛んだ。  1945年9月(昭和20年)、私は同期生だったOに会った。 「あの時のMは富士山五合目あたりで自殺した」と。


 
     





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