私は、大正15年12月に阿佐ヶ谷北三丁目に生まれ、杉一小から府立十中の一年生までここで育ちました。父の郷里の岡山からは三軒の親戚が上京して付近に新居を構えており、当時の杉並にはこうした人達が結構多く住んでいたようです。日大付属幼稚園に、桃園川の土手や田んぼの畦道伝いに通った覚えがあります。川はしょっちゅう氾濫をして、木の橋が流されたりしていました。
庭の片隅からは泉が沸いており、これが気に入って父は玉野さんから土地を借りたのだそうです。家の西隣には鬱蒼とした杉の林(四ッ谷丸太/足場丸太の栽培林)が聳え、台風の度ごとに縦横無尽に倒れて悪餓鬼どもはシーソーの替りによく遊んだものでした。
杉一小は私の六年間の在校中に創立60周年を迎えました。軍人や会社員・官僚・商店主や文士の子供など生徒達の構成は多様でした。今でも年に一度の同窓会を開いています。国鉄中央線と南北の道路は平面交差で踏切があり、昔の旧中杉通りには鷺宮との間にボンネット型のバスが走っていました。あの狭い道によくもバスが通っていたものだと感心します。
久我山の府立十中には自転車で通学しました。冬の西風に苦労をした記憶があります。昭和14年の末に、永年の間結核療養中だった母に逝かれ、翌年の春から、父の任地だった新京の中学に転入をして、私の少年期の杉並での生活は終わりを告げました。
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