窓の外は、粉雪が煙のように舞っています。豪雪の里、越後松之山は、すでに積雪は二メートルに及びます。ストーブに薪をくべ、燃え上がる炎を見ながら静かに目を閉じる。杉並公会堂を思い浮かべると、数々の情景が去来する。
そこは、多くの松が点在している林というには、木々がまばらな明るい処だった。青梅街道には、石材店の石置き場があり、大小の石が無造作に置かれていた。すべての松はいつしか伐採されて、ゆるやかに傾斜する空き地となり、傾斜の終わる処は、環状八号線の予定地で、赤土が盛られた地面は、新開地の様相をなしていた。
「あそこは、田んぼの畦道だったよ」そんな話も聞いた。
空き地の東側には竹似草やすすきが伸びほうだいに伸びた中に、子どもたちが「フィルム工場」と呼ぶ、人けの全くない倉庫の様な建物が有り、小さな冒険者たちは、有刺鉄線の囲いをくぐり、すすきや竹似草の茂みをかきわけてその建物に近づき、手足を傷だらけにしながらも、みやげを持ち帰った。
それは、活動写真のフィルムでした。チャンバラ場面の三十五ミリフィルムは、子どもたちの宝でした。当時、この様なフィルムは、ビー玉、ベーゴマ、メンコ等と一緒に、駄菓子屋さんでも売っていました。でも、苦心して得たフィルムは、子どもたちにとって、価値が違っていたのです。
又、この空き地は、冬は絶好の凧上げ場でした。一人の老人をなつかしく想いだします。晴れた日には、彼は、必ずそこにいたのです。彼の自作の凧には、自作のうなりが付いていました。うなりは、弓の形をした竹製で、弓の弦にあたるところには、巾一.五センチ、厚さ数ミリの帯状の竹が使われていました。風を受けると、この帯がなり響くのです。この響きは力強く晴れやかに、冬空をふるわせました。
時が下って、この空き地では、お盆には東京音頭が踊られました。更に下って、昭和十九年、空き地にごく近い家に米軍の爆弾が直撃し、二階建てのこの家は、跡形もなく消え去り、直径十数メートルの穴だけが残りました。
東京には、珍しい大雪の日でした
(いいのとしお・画家) |