私が、今住んでいる天沼に越してきたのは昭和22年6月。小学校一年生の時です。雨が降る中、大八車で、大した物もない荷を運んだのを覚えています。
我家は、昭和20年5月25日の新宿の大空襲でみんな燃えてしまっているので、家具などは、なかったのです。
そのころ荻窪駅の東にある大きな踏切は、北口駅前にあった日通へ荷を降す貨車を入れ換えるため、機関車から切り離された貨車が、旗を持った駅員に誘導されて行ったり来たり。「開かずの踏み切り」と言われていました。
急ぐ人は天沼陸橋のわきの小さな踏切を使いましたが、坂道だったので、自転車の人はダメだったようです。その頃自転車だって貴重品で、大きな男乗りの荷台のついた自転車ばかりだったと覚えています。
各々の家の前の道路は子どもの遊び場でカンけり、なわとび、ゴムとび、かくれんぼ、石けり等々日の暮れるまで遊んでいました。たまに自転車が通るくらいですから、いい遊び場だったのです。
ただし、雪や雨が降ると泥んこでグチャグチャ。各家で炭俵が空くと道路に敷いたりしてました。ゲタの歯の間に、石ころがはさまって歩きづらかった思い出もあります。
紙芝居やさんが毎日続き物の「黄金バット」という漫画を持って来ていました。おせんべいにはさんだ水あめや酢コンブ、あめ玉を五円也出して買った子は前の方、買えない子は「見るな」と言われながらも後ろの方からのぞいていました。未だにその物語がよく分からず、モモンガのおばば(?)という変なおばあさんと主人公の黄金バット(確かドクロの顔をしていた)しか覚えていません。そのうちラジオで「笛ふき童子」だの「赤胴鈴之助」を放送するようになりました。
我家の前の弁天池は今こそ西部ゴルフの社員寮とかいう訳の分らない建物の敷地内に入り、埋められたようですが、私が小学校の頃は池の中に橋を渡っていく弁天様がまつってあって、信心している人もいるらしくいつもお花が供えてありました。
そしてその池で、私は糸の先にお米をまるめてダンゴにしてつけ、魚を釣ろうとして苦労した思い出があります。魚は、ダンゴはつっついたけど口にパクンと入れてくれないため、ついに一度も釣ることはありませんでした。
その弁天池の道路を挟んだ東側(今は第一勧銀の社員寮が三棟建っている)の大きな家にも池があって、昔は弁天池とつながっていたようです。
(次号に続く)
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